大判例

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東京高等裁判所 昭和46年(ネ)1891号 判決 1973年5月11日

控訴人 佐藤康亮

被控訴人 国 外二名

訴訟代理人 大道友彦 外五名

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

事実

控訴人は「原判決を取消す。被控訴人らは連帯して控訴人に対し金一八八〇万三八〇〇円とこれに対する昭和三九年八月二〇日から支払ずみに至るまで年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。」との判決および仮執行の宣言を、被控訴人国指定代理人は「本件控訴を棄却する。控訴費用は控訴人の負担とする。」との判決を、被控訴人常磐開発株式会社と同赤池茂の訴訟代理人は控訴棄却の判決を求めた。

当事者双方の事実上の陳述、証拠関係は、左のとおり付加するほか原判決の事実摘示と同一であるから、これを引用する。

一  被控訴人国の代理人は、次のように陳述した。

行政庁は、その行政処分に瑕疵の存するときには、自ら進んでこれを取消すことができるものであるが、ただその取消については、公益上その必要のあること、特に取消が当該行政処分の相手方の既得の権利または利益を侵害する場合にはこれを上回るほどの公益上の必要がなければならないという条理上の制限が存するものというべきである。ところで、平労働基準監督署長は、控訴人の本件休業補償給付請求が控訴人の蒙つた本件災害が真実に反して業務上の事由によるものであるとしてなされたにかかわらず、迅速処理の要請に応ずるための行政慣行に従い書面審査のみによつて右災害が控訴人のいうとおり業務上の事由に基づくものであると誤認して控訴人に対する本件休業補償給付決定をしたものであるうえ、同監督署長による右給付決定の取消は、これにより控訴人が右決定にかかる給付を受けられなくなるに止り、それ以上の法律関係を変動させるものでも、他の関係者の法律関係や法的安定をそこなうものでもない。かかる事情のもとにおいては、平労働基準監督署長の右給付決定の取消はなんら上述の条理上の制限に背くものではなく、他に右取消の許されないものとみるべき特別の事情は存しない。従つて平労働基準監督署長が前記支給決定を取消し不給付の決定をしたことは適法かつ妥当な処分であるというべきである。

二、三 <省略>

理由

一  控訴人の被控訴人らに対する請求についてはいずれもこれを棄却すべきものであると判断するが、その理由は左のとおり付加するほか原判決の説示するところと同一であるから、これを引用する。

二  平労働基準監督署長がすでに控訴人に対してしていた休業補償費の支給決定を取消したことが違法な公権力の行使に当らないものである理由をさらに次のとおり敷衍する。

労働者災害補償保険(以下「労災保険」という。)給付に関する労働基準監督署長の決定は当該労働者の権利に対し直接法律的効果を及ぼすものとして、公権力の行使にかかる行政処分に当るものというべきである(この点については、被控訴人国も争わないところである。)から、平労働基準監督署長の控訴人に対する休業補償費支給決定の取消が行政処分であることは明らかであるが、そもそも行政庁が自らのした行政処分をその瑕疵を理由に職権で取消すについては、これを必要とする公益上の理由があること、とりわけその取消によつて関係人の既得の権利または利益が侵害されるときには、そのような関係人の被害に比して当該取消を必要とする重大な公益上の理由の存する場合でなければならないものというべきである。ところで労災法の規定による労災保険の制度は、労働基準法(以下「労基法」という。)が労働者の業務上の災害について使用者に課した無過失賠償責任の履行を迅速かつ確実ならしめることにより労働者の保護の完全を期するとともに、使用者の危険負担の分散を図ることを目的とするものである。すなわち、労災保険は、政府が保険者となり、使用者においてこれに加入して保険料を納付しておれば労働災害の発生した場合には、被災労働者またはその遺族等に対して政府が保険給付を行ない、これによつて使用者は労基法上の災害補償責任を履行したことになるという仕組みになつているものである。このような労災保険の構造からすると、労災保険の給付開始の原因となるべき労働者の業務上の災害についての労働基準監督署長の認定の誤りは、労災保険制度の運営に対する重大な支障につながるものであるというべく、労働基準監督署長においてその過誤を正すために一たんした保険給付の決定を自ら取消すことは、まさに公益上の必要に基づくものであると解すべきである。一方右取消によつて、従来保険給付を受けて来た労働者はその利益を剥奪されることになるわけであるけれども、当該利益が元来その原因なくして不当に享受されつつあつたものであることにかかんがみるときには、その喪失はいわば当然の結果として当該労働者において忍受しなければならないものというべきである。この理は、保険受給が当該労働者の不正手段による(本件における平労働基準監督署長による前記取消処分のあつた後に施行された昭和四〇年法律第一三〇号により改正にかかる労災法第一九条の二第一項参照)ものでない場合(本件における控訴人の休業補償費受給が控訴人の不正手段によるものであることを認めうる証拠はない。)にお

いても異るところはないものとすべきである。してみると右のような労災保険給付決定の取消についての公益上の必要性は、その取消が関係労働者にもたらすべき犠性を考慮に入れてもなお減殺されるものではないと解すべきである。従つて平労働基準監督署長が控訴人に対する休業補償費支給決定を取消したことには、いささかの違法性もないものといわなければならない。

三  よつて本件控訴を棄却すべきものとし、控訴費用の負担につき民事訴訟法第九五条および第八九条を適用し、主文のとおり判決する。

(裁判官 桑原正憲 西岡悌次 青山達)

【参考】原判決の判決理由中、被告国に対する請求部分の判断

<証拠省略>ならびに右争いのない事実を綜合すると次の事実が認められる。即ち、

被告会社は原告より労災法に基く保険給付請求およびその給付の受領手続を行なうことを委任されて平労働基準監督署長に対し原告を代理して昭和三九年一〇月九日、同年一一月三〇日の二回にわたり同年八月一九日から同年一〇月三一日まで七四日分の労災法による休業補償費合計金七万一三九四円を請求したところ、右監督署長は昭和四〇年一月二五日右金額の休業補償費を支給する旨決定した。そして被告会社は同年二月二〇日右決定に基づく支払の代理受領をしたのであるが、その後さらに原告のため療養補償費の請求をしたところ同年四月三〇日同基準監督署長は被告会社を通じて原告の出頭を求め、署員の山崎某をして原告の難聴に関し原告自身より事情を聴取せしめた上、当時原告の診療を担当していた医師の被告赤池茂および以前に原告を診察したことのある医師訴外柏戸貞一に原告の難聴の原因につき意見を求めたところ、右両医師の意見は原告の難聴は梅毒性病変によると考えられるということであつたので右署長は原告の前記難聴は業務外の原因によるものと判断し、原告の右療養補償費請求については不支給と決定し、すでに支給決定をなしていた休業補償費の請求についても決定を取消し、不支給の決定をなし、同年六月一四日原告に対し通知した。

そして福島労働基準局長もまたすでに原告に支給された前記休業補償費金七万一三九四円は右不支給決定により原告の不当利得として国において返還を求めるべく、前述のとおり原告に対し、金七万二二九四円を返納すべき旨の納入告知をなした。

原告は右休業補償費、療養補償費の不支給決定に対し、原告の難聴は業務上の事由によるものとしてその取消を求めて福島労働者災害補償保険審査官(以下審査官という。)に対し審査請求したので審査官は被告赤池より意見を聴取し、常磐中央湯本病院における原告の血液検査の結果をも調査し、さらに福島医科大学付属病院に原告の難聴の原因について鑑定を依頼したところ、右定によれば原告の難聴の原因は内耳梅毒が最も有力なものであるということであつた。そこで、審査官は原告の審査請求を理由なしとして昭和四〇年一一月一七日棄却し、原告は右棄却裁決に対しても昭和四一年一月一七日労働保険審査会に再審査請求をしたが同年四月一三日これを取下げた。

以上のとおり認められ右認定を左右する証拠はない。

ところで労災法上の休業補償費、療養補償費の請求を受けた所轄労働基準監督署がその当否審査のため請求者本人から事情を聴取することは当然であり、一旦請求を認めた後でもその判定に疑をもつとき、さらに再審査することももとより許されるところであるから平労働基準監督署長が原告に出頭を求め署員をして原告から事情を聴取し、これを録取したことをもつて原告に義務のないことを強要したということはできない。そしてまた審査の結果、右各補償費の不支給処分あるいは先になした支給決定の取消をなし得ることはいうまでもないところ、同署々長がなした原告の労災法上の休業補償費、療養補償費の各請求に対する右認定の不支給処分、支給決定の取消が右認定の事情および理由によりなされている以上これを違法な公権力の行使とみるべき理由はない。

さらに右のとおり原告に対する休業補償費支給決定が取消され不支給とされた以上福島労働基準局が原告に対し既に支払われていた休業補償金七万一三九四円の返納を求めることは当然の措置であつてこのことをもつて違法の行為とすべき理由はなく、右不支給決定に対する原告名義の審査請求(これを虚構のものとみるべき資料はない。)について福島労働者災害補償保険審査官が前認定の事情および理由をもつてなした右不支給決定を是認する裁決にも法令の適用を誤つたとみるべき事情は何ら存在しない。

しからば国の公務員のとつた措置に違法な点があるということはできないから原告の国に対する請求もその余の点につき判断するまでもなく理由がない。

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